息子の車に乗せてもらって、母を墓参りに連れていった。
自宅から車で1時間ほどの距離だ。 朝11時ころに出発。
菩提寺は、 神鉄鵯越駅の坂を登ったところにある。
墓参りといっても、お寺の中に墓地があり、そこに墓があるというのではない。
本堂の地下に、仏壇がズラッと並んでいるという最近の形式の墓だ。
のんべであった親父のため、缶ビールとあてを供える。
地下には誰もいず殺風景な感じであった。
仏壇で全員お祈りをしたものの、正味5分位のものだ。
母は、仏壇の下の骨入れボックスをポンポンとたたき、ほっとしたような顔になった。
母なりの、お参りを済ませたのだろう。
連れて行ってくれた孫への礼としてだが、回転寿司屋で寿司をご馳走になった。
一皿100円のくら寿司だ。 びっくらポンで、 寿司ストラップが2つ当たる。
1つは、母がお土産に貰っていった。
4人でお腹一杯食べて5000円と少しだからとても安いが、
味のほうはやはりそれなりとしか言えない。
帰路車の中から、ずっと外を見ていたが疲れた様子だ。
ようやく自宅に着いた。 足がよたよたとして、
母はマンション入り口の数段の階段さえ手すりにつかまらないとのぼれない。
悲しい認識だが、足腰も衰えた。
家でゆっくり休むように言って、私たちは隣の自宅に戻った。
いずれにせよ、ひとつ約束が果たせてほっとした。
翌朝、朝食時に母の昔話しを聞いた。
中島京子 の小説を映画化した、
山田洋二監督の 「小さいおうち」 に触発されてだ。
女中のタキを演じた、
黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞している。
母もタキさんと同じく、家つきの女中だった。
小説中の二・二六事件に関する史実で、
殺されたと思われていた岡田首相が助かったのは、2人の女中が首相を女中部屋にかくまった
からだというのがある。
それをタキは教えてもらい、家つきの女中というちっぽけな存在が、一国の首相の命を救ったということが、うれしくて誇らしくてたまらなく感じるというエピソードだ。
この日、昭和11年2月26日は東京のみならず大阪も朝から雪であった。
母は、そのころ実科女学校の副級長をしていた。
制度変更のため、実科女学校は家政女学校に名称変更となり、
その祝賀会が大阪中之島公会堂で開かれた。
母は、級長と一緒に出席することになった。
クラスで2人だけだったので、誇らしく思ったのだろう。
当日の朝は一面の雪だった。
嫌だなと思ったそうだが、雪の中を出かけた。
ホールでは、沢山の女学生が来ていて、
なぜかセイーラ服の色やデザイン、3本線の刺繍などが記憶に残っているという。
なかなか名前が思い出せなかったのだが、
漫才のミスわかな・玉松一郎がゲストとして余興をやったそうだ。
さすが大阪らしいなと思った。
式が終わり帰ってきて、 母は号外で二・二六事件が起こったことを知った。
もちろんエライことが起こったらしいという認識でしかなかったが。
これが母の強い記憶として残っている。
母はその数年後に浜寺のおうちに住み込み女中として働きに出た。
奥さんが天理教の信者であったが、ひと使いがあらく、けちんぼであったそうな。
その旦那さんの転勤により、母は家つき女中として次の家主に仕えることになった。
次の家主Mさんは、旦那さんも奥さんもとても良い方であった。
その後、芦屋の大邸宅に引っ越していった。 旦那さんは苦労人であった。
息子の私にも、掃除のアルバイトをさせてもらったり、とても良くしてもらった。
浜寺は、松林の中にあり、戦時中幸いにも爆撃はなかった。
隣の堺市は、B29の絨緞爆撃により壊滅的であった。
しかし、毎夜空襲警報がかかり、
隣の大工さんに掘ってもらった一畳四方の防空壕に逃げ込む日々であった。
母の母親であったあいさんは、避難のため大阪で弟の世話になっていた。
大阪への空爆は、すざましいものであった。
空襲により、電信柱が倒れあいさんの顔面にあたった。 打ちどころが悪く死亡。
そして大八車で遺体を運んで行った。
母は浜寺にいたので見ていないが、母の妹から聞いた話だ。
今年は、その私にとってのおばあちゃん、あいさんの69回忌になる。
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