ページビューの合計

2014年4月28日月曜日

ギャラリーフェイクの単行本カバー絵


 このところ精神状態が低調で、難しいことをする気が起こらない。 それで、マンガを読むことにした。 ギャラリーフェイク』(Gallery Fake) である。

以前全巻読んだのだが、もう一度読んで見ると面白くて夢中になる。 時間潰しには良い。
筋書は殆ど忘れてしまっているので、新たに読んでいるような気になる。 現在再読途中である。

 ギャラリーフェイク』は 細野不二彦 原作青年漫画 です。小学館ビッグコミックス全32巻。


細野 不二彦(ほその ふじひこ、1959年12月2日-)  

細野 不二彦 は、この作品で 小学館漫画賞 を受賞しています。 彼は漫画家界の大御所です。

また、ドラマやテレビアニメ化されています。 私はアニメもドラマも見ていない。
 ギャラリーフェイク 

概略(Wikipediaによる):

表向きは贋作・レプリカ専門のアートギャラリー『ギャラリーフェイク』を舞台に、
オーナー藤田玲司が、様々な登場人物と様々な美術品を通じて、時に世界を駆け巡り、
「美とは何か?」を追い求める。
主人公は単なる守銭奴・単なるビジネスではなく、アートへの奉仕者、美の探求者として
清濁併せ呑む人物として描かれている。
美術・芸術・骨董・その背景となる歴史等の多分野に渡る薀蓄的描写があり、
助手サラ・ハリファとのほのかな恋の行方も描かれる。 
好敵手の準ヒロインとして、高田美術館の館長である三田村小夜子がいる。
芸術に絡んで社会問題・時事問題にも言及するなどしており、物語は美術方面の商業的な
話題から推理サスペンス、コミカルな人間模様、陰惨な事件、時に憎み合い時に愛し合う
人々の交流、文化財保護にまつわる制度面の問題など、多岐にわたる。

絵画に関する薀蓄裏話だけでなく、トレジャーハンターなどの出てくる冒険活劇話もありました。
面白い話が満載ですが、最後はネタ切れになって終わっている感じです。 
作者が描くのにあきたのかもしれない。

ここで、私が何がしたかったかというと、全32巻のカバー絵を写真にとったので
ブログにアップしたかっただけの話です。 
漫画本の画像を探してみると、幾つかは見つかるが全巻のはなかったからだ。 

2巻づつの写真ですが、全巻 藤田玲司 の肖像です。 
長期間連載《1992年から2005年)ですが、主人公の顔つきは変化していません。 
むしろ珍しいことです。




 


無意味な作業だった。 私自身も大して面白い訳ではなかった。 
1日に1回はブログを更新しようと決意したのだが、そのためのつなぎに書いたにすぎない。 
相済まぬ。 
ここで、話は飛んでしまうのだが、現実の 孤高の画家 鈴木清一 のほうは魅力的であった。 
神戸の画家です。 この人です。 ちょっと親父と似ている。 


2001年にサンTVで放映されました。 息子さんの書いた伝記があります。 
下の本  『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』 です。

概略:
将来を嘱望されながら戦争により画壇から去った、神戸の画家の生涯を子息が綴る。
帝展入選作を含む約150作を収録。


 
作品を2,3挙げる。
 



このような神戸新聞の記事もあります。


 
Google で調べたら、 著者 鈴木耕三 による本の紹介文が載っていた。 それをコピペする。


 

本の
画像は
省略


 


 『孤高の画家・鈴木清一の作品と生涯』
         目次

  口絵
  序文   鈴木清一さんという画家
       (美術評論家・伊藤誠)
  第1章  生い立ち
  第2章  修業時代
  第3章  画壇へ出る
  第4章  平穏な日々
  第5章  国民総動員の時代
  第6章  戦後の再出発
  第7章  人生のたそがれ
  第8章  むすび
  参考資料
  付録1  鈴木清一年譜
  付録2  兵庫県美術家聯盟および
        兵庫県新美術聯盟会員
  筆者あとがき
  人名索引

  


 1895(明治29)年に茨城県で生まれた清一は、県立水戸中学校を経て東京美術学校
西洋画科へ進み、黒田清輝と藤島武二に師事しました。
1921(大正10)年、彼が美術学校研究科在学中に描いた『初秋の丘』が
第3回帝国美術院美術展覧会(帝展)に入選して以来、連続12回帝展入選を果たし、
1936(昭和11)年に改組された文部省美術展覧会(新文展)の無鑑査となってからも、
1940(昭和15)年まで招待出品を続けました。
 この間、彼は1930(昭和5)年に知人の招きで神戸へ移住し、結成後間もない
兵庫県美術家聯盟に参加、川西英、林重義、小磯良平、田村孝之介、小松益喜らと
戦前の兵庫洋画壇の黄金期を築きました。
画壇活動の実績と指導力を買われた彼は、間もなく美術家聯盟の常任委員代表に
選ばれましたが、このことが後に、職業画家としての彼の人生における重大な
岐路になったことは運命とはいえ皮肉なことでした。
 第1次大戦後のつかの間の平和は、1937(昭和12)年の日中全面戦争の開始とともに
終りを告げ、政府による戦争貫徹のための国民総動員体制 --- 国策への即応体制が
求められるようになりました。既存の各種文化団体についても、大政翼賛会の手で
統合再編成が推進された結果、兵庫県美術家聯盟は兵庫県美術協会と統合され、
兵庫県新美術聯盟が誕生し、新聯盟の常任委員長を命ぜられた清一は、
急速に戦争協力機構の中へ組み込まれていきました。
 
1945年(昭和20)年8月、日本は連合国に無条件降伏し、長い苦しい戦争は終わりました。
清一はいわゆる戦争画を一枚も描いたことはなく、従軍画家として日本軍の占領地
へ派遣されたこともなかったのですが、200人を超える新美術聯盟会員の先頭に立って
「彩管報国」に奮励努力したことはまぎれもない事実でした。
敗戦の日を境にして、それまでの価値観がすっかり逆転した戦後の大混乱期の
中にあって、清一が道義的責任を強く感じていたことは間違いなく、
戦後間もなく再開された兵庫洋画界の活動を尻目に、彼は一切の画壇活動から
潔く身を引く道を選んだのでした。
 画壇からひっそりと姿を消した清一は、私学の美術教師や日曜画家の指導などに
戦後の人生を捧げました。
その一方で彼は、生活がどんなに苦しいときでも絵筆を離そうとはせず、
黙々と孤高の制作を続けました。生活のためではなく、絵を描くことが
彼の生き甲斐だったのです。こうして彼は、1979(昭和54)年に84歳で世を去るまで
制作を続け、多くの深みのある作品を残しました。

    このようにして、芸術家であり続けることができる。 
いつものセリフで申し訳ないが、ミナラワネバ
 
       

6 件のコメント:

  1. このコメントはブログの管理者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  2. このコメントはブログの管理者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  3. このコメントはブログの管理者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除