そのポスターを新しいものから順に見ていこう。
このように、絵金すなわち弘瀬 金蔵の芝居絵屏風を商店街に飾りながら、屋台が並び、さまざまな催しが行われる賑やかな祭りとされている。
今回は、この土佐赤岡の絵師 絵金のおどろおどろしい芝居絵を紹介したい。
Wikipediaでは、つぎのように説明されている。
弘瀬 金蔵(ひろせ きんぞう) 文化9年10月1日(1812年11月4日) - 明治9年(1876年3月8日)
江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師。
本名は生前10回以上にわたり改名しているが一般には弘瀬金蔵の名で知られており、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。
Wikiを参照して、簡単に経歴をのべる。
・文化9年、高知城下に髪結い職人の子として生まれる。
・幼少の折から絵の才能で城下の評判となり、16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和に師事する。
・林 洞意(はやし とうい)の名を得て高知に帰郷、20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となる。
・狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ、高知城下所払いの処分となり、狩野派からは破門を言い渡される。
・高知城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後、慶応年間より叔母を頼って赤岡町に定住し「町絵師・金蔵」を名乗る。
・地元の農民や漁民に頼まれるがままに芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを数多く描き「絵金」の愛称で親しまれた。この時期の猥雑、土俗的で血みどろの芝居絵は特に人気が高い。
・大政奉還の後は生まれ故郷の高知に戻るが、1873年に中風を患い右手の自由が利かなくなったため左手で絵を描き続けた。 1876年3月8日死去。享年65。
絵金蔵には、町内に残された23枚の屏風絵が収蔵されている。
正面から見た絵金蔵
蔵の内部は、このようになっている。
よさこいネットによると、
夏祭りの夜の不囲気を再現した展示室や、壁の穴から実物の芝居絵屏風を覗き見できるしかけなど、ユニークな展示方法で絵金と土佐の芝居絵屏風を飾る祭礼文化を紹介している。
とのことである。それでは、画質は余り良くないが、絵金の芝居絵屏風を見ていこう。
つぎに比較的鮮明な画像をアップする。これらは、展覧会の画集からスキャンされたもの。
1970年の絵金展の横尾忠則によるポスター。
絵金祭の風景。蝋燭の灯りで絵を鑑賞するお祭りです。
屏風絵は、このように惜しげなく商店街の軒先に並べられている。
一昔前のお祭りの風景。
最後に関連ゆるキャラの情報。絵金のゆるキャラ「あかおか えきんさん」が存在する。こいつである。デザインは、やなせたかし。
今回は、これでおしまい。
(後注:消し忘れで同じ画像を2枚アップしていたので、1枚は削除した。段々不注意の具合が酷くなる。情けないことである。)
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