前々回の記事でメメント・モリの絵画として、西洋の骸骨絵を紹介した。日本でも浮世絵を探してみれば骸骨絵は相当数見つかる。今回は、それらを紹介しよう。
骸骨(どくろ)絵として、最も著名なのは歌川国芳によるこの絵であろう。
「相馬の古内裏」
同様に有名で、良く知られているのが、葛飾北斎による
「こはだ小平次」(『百物語』より)である。
月岡芳年もまた、髑髏絵を描いている。
「和漢豪気揃 髑髏」
そして、河鍋暁斎。
「美女の袖を引く骸骨たち」
「髑髏と蜥蜴」
以下ランダムに骸骨絵を紹介していきたい。以前ジグソーパズル絵として紹介した、 歌川国芳の作品だが、これは西洋の絵画の本家取りではないかと書いたのだが、骸骨絵もまたその影響を受けて製作されたのではなかろうかと思う。根拠のない推測です。 江戸のジグソーパズル絵
その歌川国芳の骸骨絵。
コマで作られた骸骨だが、作品の題目は調べきれず。
「於岩ぼうこん」
「国芳もやう正札附現金男野晒悟助」
この絵師は、優れた面白い浮世絵を多数残している。 別の機会にそれらを紹介する予定。
ところで、浮世絵の骸骨といえば、しばしばそれとセットになって描かれているのが地獄太夫である。予備知識として、Wikipediaから解説記事を引用する。
地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)
室町時代の遊女。梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という。
室町時代、泉州境の遊郭に居た遊女で、元は名家(武家)の娘ながら、山賊にかどわかされて苦界に身を沈めたが、それも前世の不信心のゆえと、懺悔の心を込めて自ら「地獄」と名乗り、地獄模様の着物を羽織って仏の御名を唱えながら客を迎え送っていた。
史実かどうかわからんが、つぎのエピソードが良く知られている。
一休宗純(一休和尚)が堺におもむいたとき、
「聞きしより見て美しき地獄かな」
と歎賞すると、武家の生まれで歌のやり取りにも秀でていた太夫は
「生き来る人の落ちざらめやも」
と見事に返し、これを機に2人は師弟関係を結んだという。
地獄太夫の描かれた絵には、地獄図だけでは無く、天女やお地蔵様も描かれている物もある。
一休の教えによって太夫は、地獄も極楽も一如であると悟ったそうだ。
髑髏の現れる地獄太夫関連の浮世絵を見ていこう。
小林清親 「地獄太夫」
左右の骸骨絵を拡大してみる。骸骨が踊りや飲み食いをしている様子で、面白い構図である。
月岡芳年 「新撰東錦絵 一休地獄太夫」
先のエピソードに因んで、一休和尚がしゃれこうべを太夫の前に掲げている。一休和尚は、私の知っている風体と全く異なっている。禿げてはおらんのだ。
月岡芳年 『新形三十六怪撰』より 「地獄太夫悟道の図」 (Wikiの挿絵の拡大版)
河鍋暁斎 「一休地獄太夫」
歌川国貞 「地獄太夫染衣」 と 「一休禅師宗純」
その他、見つかった骸骨画をいくつか挙げる。
葛飾北斎の筆とされる 「骸骨図」
河鍋暁斎 「骸骨図」
「骸骨の休日」 骸骨が楽しそうと言えば、やっぱり可笑しいね。
また、このような日本画の骸骨絵もある。
円山応挙 「波上白骨坐禅図」
「月下竹林骸骨行之図」 で、作者不詳。
髑髏には、充分堪能されたと思う。 今回はこれでおしまい。
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