播但線・養父駅の南西10Km、国道70号線に面した場所に境内がある。帰り道車で走っていて見つけた神社である。全く知識のない神社で、いつものように調べながら記事を書くことにする。
一の鳥居 新しい石鳥居で皇太子御成婚記念を祝って新たに建造されたようである。ならば平成5年に作られたことになり既に25年は経っている。それにしては貫が妙に真新しい?
(後注:理由が判明する。昨年6月に大雨のため杉木が倒れ石鳥居の傘木部分が破壊された。その後修復されたのが現在ある石鳥居でした。旧鳥居は無事でした。)
(後注:理由が判明する。昨年6月に大雨のため杉木が倒れ石鳥居の傘木部分が破壊された。その後修復されたのが現在ある石鳥居でした。旧鳥居は無事でした。)
(破壊された様子の画像
社碑 郷社 齋神社 と刻されている。私は相変わらずの無知でいつきじんじゃとは読めませんでした。社碑の隣に石碑が立っていて、壌政官殿下御成婚為記念石鳥居建設 と彫られている。皇太子御成婚を記念して石鳥居が建立されたの意らしい。
天皇陛下在位60年 拝殿改築記念碑
掲示板 養父町の文化財指定 齋神社のお走り絵馬の里 の解説板
平成21年8月の台風9号による豪雨災害で斎神社本殿が倒壊した。その拝殿には、市指定文化財「斎神社のお走り絵馬」があった。上の掲示板の絵です。
明治32年に地元の絵師村上墨渓が、斎神社に到着した江戸時代のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬です。拝殿とともに倒壊して埋まりました。
後で紹介します。
旧鳥居 珍しく厳島神社と同じ木製の両部鳥居です。
神額 木版に 齋大明神 と彫られている。
石段から二鳥居を眺める。 鳥居横が国道70号線。
それではここで齋神社の基礎データを与える。
所在地:〒667-0145 養父市長野265
ご祭神: 主祭神
天太玉命 (あまのふとだまのみこと)
木造天太玉命座像
配祀神
手置帆負命 (たおきほおいのみこと)
彦狹知命 (ひこさしりのみこと)
二柱共に画像は見当たらず。
由緒:
聖武天皇の天平二年(西暦730年)の創立と伝えられ、足利時代 山名氏の崇敬を受け、江戸時代は生野代官の信仰を得た。
明治6年(1873)10月村社に列し、昭和10年(1935)10月郷社に昇格した。
毎年4月15、16日の両日、但馬開発にかかわる伝説として、16km離れた養父神社より神輿の渡御がある。
毎年4月15、16日の両日、但馬開発にかかわる伝説として、16km離れた養父神社より神輿の渡御がある。
それでは参拝を始めよう。
旧鳥居先の参道横に並ぶ 狛犬二基
石段の参道
御神燈
朱塗りの手水舎
ご神水を注いでいるのはカエル君でした。
手水舎から更に石段を上ったところが境内になる。
境内の隅に立つ常夜燈
境内社が五社並んでいる。
中央にある摂社の楯縫神社 県の登録文化財である。1760年に建造された250年以上の歴史をもつ社殿である。
平成21年8月台風9号により神社の裏山から土石流が発生し、本殿・弊殿・拝殿が完全に倒壊した。本殿が再建されるまで当社殿が齋神社の仮本殿となっていた。
そんな事が可能なのかと思いきや歴史を振り返るとその理由は肯ける。
そもそもこの建物は宝暦10年(1760)に斎神社本殿として建立されたもので、昭和12年に本殿が新築されたことから、旧本殿が摂社楯縫神社の本殿となったものでした。
そもそもこの建物は宝暦10年(1760)に斎神社本殿として建立されたもので、昭和12年に本殿が新築されたことから、旧本殿が摂社楯縫神社の本殿となったものでした。
社額 煤けてしまっているが 楯縫神社 と書かれている。
両脇に境内社が四社ある。
右側の二社
右側が琴平社で、もう一方の社名はわからない。
左側の二社
歳徳金社
招魂社
災害の様子を記した広報記事:
斎神社では、境内が土石流で埋まって神社の中心建物が全壊するという大惨事となりました。
神社の裏山から土石流が発生し、本殿・弊殿・拝殿が完全に倒壊しました。本殿を倒壊させた土砂と杉立木は、境内全体を埋め尽くしています。本殿の建っていた場所は土砂で完全に覆われ、元の位置も全く分かりません。
本殿の柱は倒れ、建物は10mほど前方に飛ばされました。拝殿も前方に倒壊しました。拝殿の屋根は、建物の前にある杉の立木が支えとなって、そのままの形で落下しています。
神社の裏山から土石流が発生し、本殿・弊殿・拝殿が完全に倒壊しました。本殿を倒壊させた土砂と杉立木は、境内全体を埋め尽くしています。本殿の建っていた場所は土砂で完全に覆われ、元の位置も全く分かりません。
本殿の柱は倒れ、建物は10mほど前方に飛ばされました。拝殿も前方に倒壊しました。拝殿の屋根は、建物の前にある杉の立木が支えとなって、そのままの形で落下しています。
再建の広報記事:
本殿は、全体が元の位置から9mも押し流されていました。境内は1mから2mの砂で埋まっていました。本殿を掘り出し、部材を1本ずつ丁寧に解体し、倒壊したすべての部材を救出しました。
しかし再建するためには設計図が必要です。倒壊した本殿には建築図面がありません。このために解体しながら部材の寸法を計測し、平面図や断面図などの倒壊前の建築図面を作成して構造を解明しました。
斎神社本殿は、土砂の中から救出されました。破損した部材を修理し、すべて元通りに組み上げて保存修復する計画です。総工費は約1億円といいます。台風災害からの復興、これからが本番になります。
拝殿中
本殿扉
拝殿に幾つかの奉納絵馬が掛けられている。
戦時での武将の立ち居振る舞いを表わしているらしい。ネット上には情報がないので詳しい事はわからない。
傷んでしまったがこれがお走り祭りの絵馬です。
市指定文化財 斎神社のお走り絵馬 として認定されている。明治32年に地元の絵師村上墨渓が、斎神社に到着した江戸時代のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬ということです。
案内板より転記:
お走り祭りの伝説
神代の昔、円山川下流域が泥海であったため、但馬五社の神々が相談し、養父神を名代として当社祭神に土木工事を依頼する。
祭神は快諾して、円山川河口の瀬戸を開き、泥海はたちまち肥沃な土地となったという。
但馬五社の神々は、ふたたび養父神を名代として当社へお礼参りをしたのが「お走り祭り」の起源だという。
養父神が当社へ訪れる際に、鮭の背に乗って来たためか当社の神使は「鮭」である。
よって氏子は祭当日には鮭を食することは禁じられ代わりに鱒を食べるという。
但馬五社の神々は、ふたたび養父神を名代として当社へお礼参りをしたのが「お走り祭り」の起源だという。
養父神が当社へ訪れる際に、鮭の背に乗って来たためか当社の神使は「鮭」である。
よって氏子は祭当日には鮭を食することは禁じられ代わりに鱒を食べるという。
但馬五社の神々とは次の五神である。
幣殿から本殿
本殿屋根 彫刻が素晴らしい。養父市広報によると、彫刻は姫路市飾磨区の三代目松本義廣の作品であることが判明。彼は祭礼で使う屋台彫刻の専門家で、名工と言われた人物。
本殿
境内 拝殿前
境内 社殿の裏山もこのように修復されている。
最後に参道に可憐に咲いていた花の写真
0 件のコメント:
コメントを投稿