歌碑
山姫の嶺の梢にひきかけて
晒せる布や滝の白波
源 俊頼
説明板
源 俊頼(としより) (天喜三(1055)~大治四 (1129)) 、平安期歌人。 源経信の子で木工頭であった。父経 信の影響下に早くより作歌活動を始 め、やがて歌合の判者など指導者とし て活躍した。清新な歌風の持主で歌壇 に新風を吹きこんだ。白河院の命によ り金葉集を撰進した。 この歌は、彼の歌集「散木奇歌集」 によれば「布引滝」であるが、続古今 集では「布引滝見にまかりて」との題 であるので、実地詠となる。人間の手 によるものでなく、この滝水は、山の 女神が嶺の梢にひきかけて、山の斜面 にさらした白布であるよ、との布引の 名を如実に示しているのである。
このような歩きやすく舗装された山道を進んでいく。
歌碑
松の音琴に調ふる山風は
滝の糸をやすけて弾くらむ
紀 貫之 彼は土佐日記で有名ですね。
滝の糸をやすけて弾くらむ
紀 貫之 彼は土佐日記で有名ですね。
説明板
紀 貫之(生年未詳~天慶八(945)) 、 平安朝歌人。 官吏としては木工権守が最後であっ てが、歌人としては最初の勅撰集、古 今集撰進の第一人者であり、平安朝和 歌の基礎を築くと共に、古今集序や土佐日記によって仮名文字の道を開い た。数多い屏風歌を詠んだのも特徴で ある。 この歌も屏風歌で、延喜十七年(917) 敦慶親王(宇多皇子)家の屏風の(松山 の)滝を画いた大和絵の画賛の歌であ る。松風が琴の音のようにひびいてくる、滝水の糸を張っての琴であろうよ、 と松籟と滝音とが調和している風情を 思いやって詠んでいるのである。
鼓瀧展望所
標石 鼓瀧 と刻されている。
鼓滝 滝の右側半分が岩の影に隠れてしまっている。
歌碑
幾世とも知られぬものは白雲の
上より落つる布引の滝
幾世とも知られぬものは白雲の
上より落つる布引の滝
藤原家隆
藤原家隆(保元三(1158)~嘉禎三 (1237))、平安末鎌倉期歌人 中納言光隆の子で宮内卿であった が、歌壇に活躍、新古今集撰者となり、 藤原定家と並び称せられる新古今時代 の代表歌人である。 多作家で詠歌六万首あったと伝えられ る。後鳥羽院を慕い、院隠岐配流後も 忠誠をつくしたのは有名である。この 歌は新後撰集にあるが、千五百番歌合 における勝歌で判者慈円は、 いとどしく 音さへ高く 聞ゆなり 雲にさらせる 布引の滝 との判の歌でもって讃えている。布引 滝の壮大性と永続性がみられる。
石垣が整然と積まれている箇所もある。
そして雄滝に到着。
狭ご路も橋 展望所
狭ご路も橋 展望所
環境庁 布引渓流 の掲示板
上流の布引ダムから布引の滝への放流水路が示されている。滝の水量が少ない時に放流する。
その狭ご路も橋の袂にある在原行平の歌碑
我世をは今日か明日かと待つ甲斐の
涙の滝といつれ高けむ
在原行平 有名な在原業平の兄である。
説明板
在 原 行 平 ( 弘 仁 九 (818) ~ 寛 平 五 (893))、平安朝歌人。 父は芦屋に塚のある阿保親王(平城 皇子)で業平の兄である。因幡守や民部 卿であったが須磨に隠棲の身となり、 松風村雨との伝説は有名で、謡曲「松 風」などの題材となっている。 この歌は新古今集にもあるが、元は 伊勢物語で、業平一行と布引見物に来 た時の歌である。自分の失意を表した 歌で「世にときめくのを今日明日と待 つ甲斐もなく不幸なわが身こぼれ落ち るわが涙の滝とこの滝とどちらが高い か、私の涙の方が・・・」との気持ちがに じみ出ている。涙のなに甲斐の無がひ びいている。
同じく雄滝の袂にある歌碑
ぬきみたる人こそあるらし白たまの
まなくもちるかそての狭きに
在原業平 こちらは伊勢物語の色男で有名ですね。
在 原 業 平 ( 天 長 二 (825) ~ 元 慶 四 (880))、平城天皇皇子の阿保親王の第 五子で在五中将とも呼ばれる。六歌仙時代の代表歌人であり情操ゆたかな歌 を詠んだ。業平の歌を物語化したもの が漸次増益して現在の伊勢物語になっ たとされている。 この歌も伊勢物語にあるもので、業 平が父の領地芦屋の里にいた時、友人 たちと布引の滝見物に来た時詠んだも のである。滝の水玉がとび散るのを、 緒で貫いた白玉をばらばらにして散ら したように見たてたもの。袖は白玉を うけとめる自分の衣の袖である。
滝壺そばにある涙石
神戸市広報による解説文:
布引のたきつぼのそばに「涙石」とほられた石があります。
平安時代のはじめのことです。桓武天皇の長男・平城天皇の孫に在原行平・業平という兄弟がありました。 ところが平城天皇のあとは代々平城天皇の弟・嵯峨天皇の子孫がついでいきましたので、二人は京の都にいてもあまり幸福ではありませんでした。
そこで二人はよく都をはなれて暮らしました。ある時、在原行平が芦屋の里(兵庫県芦屋市)に住んでいた時のことです。
都から兄の行平が友人たちと訪ねて来たのです。「それでは、みんなで布引のたき見に出かけよう。日帰りのちょうどいい行楽だ」
大きな岩はだに白い布をかけたようなごうごうと落ちるたきを見ながら、人々は和歌を作りました。 業平は「川上でだれかが首飾りのひもを切ったのか。水の白い玉がたえず落ちてくる」と歌いました。
兄の行平はふと都でのめぐまれない生活を思い「幸運を待って流れる私の涙と、この滝の水といずれが多いか」と歌って、 ホロリとなみだを落としました。このなみだはそばにあった石の上に落ちて、石の表面で「涙」という字になったということです。
その行平の歌碑
こきちらすたきのしら玉拾ひおきて
世のうきときのなみたにそかる
世のうきときのなみたにそかる
在原行平
説明板
以前の道場に取材に行った時月見橋で松風村雨の姉妹を紹介したことがあります。神戸北区 観世寺と神戸三田メモリアルパーク
月見橋 在原行平卿が都に帰った後、須磨の松風・村雨の姉妹が都恋しと月を眺めた橋
立ち別れ いなばの山の 峯に生ふる
まつとしきかば 今かへりこむ 行平
気が付かなかったのですが、布引の滝を詠った行平の和歌は二首もありましたね。
今回はこれでおしまい。次回は最終回の 布引の滝 III である。
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