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2018年5月10日木曜日

神戸中央区 布引の滝 III

布引の滝の最終回である。 

奈良時代から知られる名滝なのでもう一度アップで雄滝を観賞しよう。

滝上部

滝下部から滝壺


滝壺横の岩壁に祀られている祠



不動明王の祀られている祠

寿老人もついでに祀られている。 


狭ご路も橋



橋を上った地点での滝周辺の眺め


滝壺

雄滝の全景




以上で布引の滝鑑賞は終了して、以下では往復路にあった歌碑を連続して紹介する。

歌碑


たち縫はぬ紅葉の衣そめ出てて
何山姫のぬの引の滝

順徳院



説明板


順 徳 院 ( 建 久 八 (1197) ~ 仁 治 三 (1242))、父は後鳥羽院、第八十四代の天皇である。早くから和歌に親しみ歌 学を研究された。 その著「八雲御抄」は古代歌学を知 る上に重要な資料となっている。父と 共に北条氏打倒を企てられたが、事成 らず佐渡島に配流の身となられた。 この歌は建保三年(1215)の内裏名所 百歌の中「布引の題」を題にしたもの である。たちぬはぬ衣は無縫の天衣で あり、山姫は山の女神を意味する。


歌碑

岩はしるおとは氷にとさされて
松風おつる布引のたき

寂蓮法師



説明板

寂蓮(生年不詳~建仁二(1202))本名 は藤原定長で俊成の養子となったが出 家して寂蓮と号した。諸国に旅すると 共に諸歌会に出詠するなど歌壇で活躍 した。新古今集の撰者にも加わったが、 その成立を見ずして没した。 この歌は玄玉集によれば「百首歌に 氷閉滝水といふ心を」という題の歌と なっている。 氷にとざされた滝水に松風を配して たくみに表現している。玄玉集は建久 二年(1191)頃に成った私撰歌集であ る。

歌碑

津の国の生田の川の水上は
今こそ見つれ布引の滝

藤原基隆

説明板


藤原基隆(もとたかもと) (生没年未詳)、鎌倉期歌人。 藤原基綱の子で六波羅評定衆(鎌倉 幕府の職名で京都六波羅で訴訟を司っ た役人)であった。歌は続古今集以下 勅撰集に八首入集する。 この歌は新続古今集に「布引滝を」 の題で入っている。生田川は明治期ま では加納町三丁目三角地帯の「史跡生 田川址」の記念碑が示すように、布引 から加納町を経て南下する幹線道路が その川筋で、その水上に「今こそ見つ れ」と新しく接した感慨が感じられる のである。単純な表現が却って実感味 を帯びている。

布引公園

公園で遊ぶ子供達(撮影は昨年の冬でした。)




歌碑

水の色たた白雪と見ゆるかな
たれ晒しけむ布引のたき

源 顕房




説明板

源 顕房
(あきふさ) (長暦元(1037)~嘉保元 (1094)) 、平安朝歌人。 土御門右大臣師房の子で、彼もまた 右大臣で六条右大臣と号した。後拾遺 集以下に十四首入集する。この歌は栄 花物語にあるもので、承保三年(1076) の頃、時の関白師実が布引の滝を遊覧 した際従った顕房の詠んだ歌、滝水の 真白さを白雪にたとえている。千載集 では白雲とあるが、晒すは水で洗った り干したりして白くすることで、やは り白雪がよい。この様に白く美しくす るのは誰がしたのであろう、人間わざ ではあるまいとの心情が出ている。 なお関白師実の歌は歌碑「さらしけ む」の歌である。

記憶できないのだけれども歌碑について色々と勉強しました。

帰り道すがらにあった 地主黒龍大明神 の祠


そして新神戸駅まで戻ってきたのでした。これでおしまい。

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