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2015年2月4日水曜日

モラヴィアの画家 アルフォンス・ミュシャ

インフルエンザをこじらせてしまい、結局この2,3日寝込んでしまった。咳が酷くて体調は悪く、精神状態は更に低調になった。 ベッドで本を読むだけの情けない日々を過ごしたのでした。  

今回は気分を変えて趣味の絵画シリーズである。 

先日堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館へ行ってきた。与謝野晶子文藝館と共通で拝観できる。 ここは、独立した建物ではなく、ベルマージュ堺弐番館というマンションの2階~4階の部分を占用した文化館になっている。 拝観料は一般500円であるが、65歳以上は無料である。従って私は、無料で拝観できたのである。堺市は、文化都市である。実にエライ!

今回紹介したいのは、そのアルフォンス・ミュシャである。 モラヴィアの生んだ偉大なる画家です。 著名なので、ご存じの方も多いと思う。 Wikipediaによる記事。

アルフォンス・ミュシャ
Alphonse Mucha

アルフォンス・ミュシャ
生誕アルフォンス・マリア・ムハ
Alphonse Maria Mucha

1860年7月24日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、モラヴィア(現代のチェコ) イヴァンチツェ(チェコ語版、英語版)
死没1939年7月14日(満78歳没)
ベーメン・メーレン保護領の旗 ベーメン・メーレン保護領
プラハ
国籍チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
教育ミュンヘン美術院、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシ
著名な実績絵画、イラストレーション、装飾美術
代表作スラヴ叙事詩』 (Slovanskà epopej)
運動・動向アール・ヌーヴォー

アルフォンス・マリア・ミュシャAlfons Maria Mucha, 1860年7月24日 - 1939年7月14日)

アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道12宮』『四芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。

2012年の8月末から9月にかけてチェコ旅行をした時に、プラハのミュシャ美術館を訪づれており、大作の『スラヴ叙事詩』に感動したのであった。 チェコ旅行記を書くときに紹介しようと思っていたが、この調子ではいつになるかわからんので今しようと決めたのだ。

ミュシャは、大学生のころから知っていた。そのころ外国切手を集めていて、チェコスロバキアの美術切手は凹版多色刷りで大層美しいものでした。 それは、1969年発行のミュシャの死去30年記念の切手です。4種類の発行で、低額3種の図案は四芸術シリーズです。



左から、舞踏、絵画、音楽だが、私の見るかぎり原画と切手図案とは異なっている。 4つ目の詩歌は抜けている。 下の画像の右側が抜けている詩歌です。 左側は舞踏で、上の図案と異なる部分もある。


中央の30h(絵画)の図案はポーズが原画と大きく異なるし、左端の60h(音楽)の図案も着衣が描かれていない。ミュシャの画集を調べてみて分かりました。当時は原画通りと思っていました。

 

この3枚はCTO(cancel to order:注文消し)ならば、安くて1枚10円位だったように記憶している。
当時値段が高くて買えなかったのが、高額のこの切手です。この図案では、「宝石」シリーズの「ルビー」と「アメジスト」を並べている。現在はチェコの郵趣家との交換により所有している。優れて美しい切手です。こちらはほぼ原画通りである。 (後注:現在はセットで400円くらい。)




原画はこのようである。
 

《宝石:トパーズ、ルビー、アメジスト、エメラルド》
1900年 © Mucha Trust 2013
 
 
ポスターの男装の麗人は、舞台俳優のサラ・ベルナールである。
パンフの裏は、展示作品と展覧会のキャッチコピーが書かれている。

 
         
良いコピーだと思えるので、引用する。 

企画展ミュシャが彩る物語

アール・ヌーヴォーの代表的画家として知られるアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の画業には、常に「物語」が存在していました。大衆雑誌に連載された冒険物語デンマーク王子の苦悩を描いた悲劇の傑作、叶わぬ恋に翻弄される青年が主人公の小説、スラヴ民族のたどった歴史の再解釈ミュシャは挿絵やポスター、油彩画などの媒体を通して、さまざまな物語を描き出しています。

活動初期に挿絵画家として収入を得ていたミュシャにとって、物語を彩ることは創作の原点だったとも言えます。単純に特定の場面を描くだけでなく、物語を深く理解し、独自に咀嚼したうえでオリジナリティあふれる画面を生み出したり、「ミュシャ・スタイル」と呼ばれた自身のデザイン様式を生かし、装飾を用いて視覚的な美を追求したりと、その表現は次第に発展していきました。

本展覧会では、「物語」とミュシャの関わりについて注目し、多様な媒体にあらわされた文学や史実に基づく作品を、ストーリーとともに紹介します。
 
とある。その記述通りの展示になっていました。 堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館

館内で写したポスターや展示作品のコピー写真です。








 
展示作品の幾つかを上記のホームぺ-ジを参照して紹介する。
 
1.  ウミロフ・ミラー   (油彩、カンヴァス)
 


2.  クオ・ヴァディス  (1904    油彩、カンヴァス)



    3.  ラ・ナチュール   (ブロンズ、アメジスト)
 


    4.  蛇のブレスレットと指輪  (1899 金、エナメル、オパール、ルビー、ダイヤモンド)


サラ・ベルナールが舞台で使用したブレスレットだそうだ。

5.  クオ・ヴァディス  (1899   リトグラフ)



6.  ヒヤシンス姫  (1911   リトグラフ)


この絵画は、やはりチェコスロバキアの美術切手に描かれている。



その他にも、沢山の挿絵や絵葉書などの印刷物も展示されている。

手持ちの画集から彼の年譜を引用する。 国民的大画家であるが、若いころは順風満帆というわけではない。いささか長いが引用する。



 1860年   7月24日、現在のチェコ共和国南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれる
        チェコ語ではアルフォンス・ムハ。

 1871年  ブルノの中学校に通う
        聖歌隊で後の作曲家レオシュ・ヤナーチェクと知り合う

 1873年  最初の公的な仕事、ウスチー・ナド・オルリツィ合唱団の聖歌集の表紙を描く

 1875年  変声期のため聖歌隊を続けることができなくなり故郷のイヴァンチッツェに戻る
        書記になってデッサンに励む。 

 1877年  プラハの美術アカデミーに入学を希望するが不許可

 1879年  広告に応募してウィーンに行き、舞台美術の工房で働き、夜はデッサン教室に通う

 1881年  12月10日、ウィーンのリング劇場焼失

        工房はミュシャを含むスタッフの一部を解雇

 1882年  ウィーンを去ってミクロフで土地の名士たちの肖像を描いて生計を立てる

 1883年  ミクロフの領主クーエン・ベラシ伯爵に雇われ、エマホフ城の食堂と図書室
        の絵画を修復する

        伯爵の弟がミュシャの最初のパトロンになる。

 1884年  クーエン伯爵の援助でミュンヘンに留学

 1885年  ミュンヘンの美術学校に入学

 1887年  パリに出る

 1888年  アカデミー・ジュリアンに入る

 1889年  アカデミー・コラロッシに移る。年末、伯爵の援助が突然打ち切られる

 1890年  フランスの雑誌に初めてミュシャの挿絵が登場

 1891年  ポール・ゴーガンと出会う

 1892年  「ドイツの歴史の諸場面とエピソード」の挿絵の依頼を受ける

 1894年  サロン・デ・ザルティスト・フランセに「ドイツの歴史の諸場面とエピソード」の
        挿絵の原画4点を出品、優秀賞牌を受ける

        「ジスモンダ」に主演するサラベルナールのために最初のポスターを制作。

 1895年  「ジスモンダ」のポスターがパリの街に貼りだされ、ミュシャの名声が高まる

        その後6年間サラ・ベルナールと契約を結ぶ

 1896年  最初の装飾パネル〈四季〉を制作

 1897年  最初のミュシャ個展が開催さる。 カタログ収録作品数107点

        サロン・デ・サンで2回目の個展開催。カタログ収録作品数448点

        「ラ・プリュム」誌個展期間中にあわせてはミュシャ特集号を刊行

        「トリポリの姫君イルゼ」出版、134点の挿絵を担当。

 1898年  パサージュ・スタニスラスで「紳士淑女絵画教室」を開講

        バルカン諸国を旅行。 「スラヴ叙事詩」の最初の構想を持つ

 1899年  1900年パリ万博に向けて、博覧会の公式カタログの表紙、ボスニア=ヘルツェ
        ゴビナ館の装飾、オーストリア=ハンガリー帝国のポスターなどの注文を受ける

 1900年  サラ・ベルナールとの契約終了

        パリ万国博覧会ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾で銀賞を受ける

        フーケ宝飾店のためのデザインを始める

 1901年  パリのロワイヤル街にフーケ宝飾店が開店する

        レジオン・ド・ヌール勲章を授章

        チェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙

 1902年  チェコの芸術家協会「マーネス」がプラハで大ロダン展を開催

        ミュシャは友人のオーギュスト・ロダンを伴いプラハとモラヴィアを訪ねる
        ロダンはモラヴィアの民俗芸能に驚嘆する

       「装飾資料集」刊行

 1903年  バリで未来の妻マルシュカ・ヒティロヴァに会う
        彼女は一時ミュシャの生徒だった。

 1904年  「クオ・ヴァディス」完成

        アメリカに招かれる

        祖国のための制作に専念する資金を得るため、上流社会の肖像画を描く

        「ニューヨーク・デイリーニューズ」紙がミュシャ特集号を出し、
        ミュシャは「友情」を発表

 1905年  「装飾人物集」刊行

        イラーセクの小説「すべてに抗して」を読みチェコの歴史や偉大さを絵画で
        表現することを決意する

        ニューヨークでチェコの名ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックと懇意になる

 1906年  マルシュカ・ヒティロヴァとプラハで結婚

        ハネムーンをボヘミア南西部で過ごす
        そこで〈真福八端〉を描き、妻マルシュカが絵の装飾を描く

        秋、妻と共にアメリカに出発。 シカゴの美術研究所で講義を始める

        ニューヨークの女子応用美術学校の教授に任命される

 1907年  ルーマニア皇帝より最高勲爵士授与

 1908年  「ハーモニー」など、ニューヨークのドイツ劇場のための装飾画を制作

        ボストン交響楽団のスメタナの連作交響詩「わが祖国」を聞き、スラヴの連帯を
        促進し芸術を通してスラヴ諸国の文化を広めるために生涯を捧げる決心をする

 1909年  娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる

        チャールズ・R・クレインがミュシャの「スラヴ叙事詩」の計画に賛同し、財政援助に同意

 1910年  西ボヘミアのズビロフ城の一翼をアトリエと住まいとして借り、そこで18年間
        「スラヴ叙事詩」の制作を続ける。

 1911年  プラハ市民会館の壁画制作をはじめる

        アドリア海岸で「スラヴ叙事詩」の最初の油彩スケッチを描く

 1912年  「スラヴ叙事詩」の最初の3点が完成し、プラハ市に贈る

 1915年  息子イジーが生まれる

 1918年  チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、郵便切手、紙幣をほとんど無償でデザインする

 1919年  5コルナ、100コルナ、120コルナ紙幣のデザインをする

        「スラブ叙事詩」の最初の11点をプラハ、クレメンティナムで展示

 1920年  アメリカヘ向けて出発

 1921年  「スラヴ叙事詩」5点をニューヨーク・ブルックリン美術館およびシカゴ美術館で展示、
        成功を収める

 1928年  「スラヴ叙事詩」20点をチェコ国民およびプラハ市に贈呈する用意があると発表
        これらの作品を産業博覧会の新会館で展示

 1931年  プラハ、聖ヴィタ大聖堂大司教礼拝堂のステンドグラスのデザイン、制作をする

 1936年  フランチシェック・クプカと共にパリのジュドポム美術館で作品展示

        ミュシャのカタログ収録作品数は139点

 1938年  肺炎にかかり、健康を害する

 1939年  ナチス・ドイツ、ボヘミアとモラヴィアを併合

        チェコスロヴァキア共和国は解体させられ、3月15日ドイツ軍がプラハに入場

        7月14日、プラハでミュシャ死去。享年78歳 


ミュシャの生涯においてエポックメーキングなのは、やはりサラ・ベルナールとの出会いであろう。




フェリックス・ナダール撮影による1860年代の肖像写真
 
サラ・ベルナールSarah Bernhardt, 1844年10月22日 – 1923年3月26日)

フランスの舞台女優。フランスのベル・エポックを象徴する大女優として知られる。


 サラ・ベルナールルネサンス劇場のため制作した、リトグラフによる最初のポスター「ジスモンダ」が彼の出世作になった。このポスターである。



その成功により、サラはミュシャと6年間の専属契約を結ぶ。 そのポスターの一部を挙げよう。


ハムレット
 
ロレンザッチオ
 
 
椿姫 
 
サマリアの女
女王メデイア
 
 
その他の舞台ポスターや商業ポスター。



モード・アダムス演じるジャンヌ・ダルク。1909年のポスター


自転車ポスター(1902)

 

『モラヴィアの教師聖歌隊』(1911)

宝飾品や装飾的な塑像も彼は製作した。展示されていた彫刻やブレスレットの他、宝飾店のデザインも行っている。 これは、ジョルジュ・フーケの店のインテリアデザイン。 



最後に「スラヴ叙事詩」全作をアップする。壮大な絵画群です。その大きさを見るためにも製作風景を見てください。 私が見たときは、巨大な展示場の壁一面に絵が架かっていました。  


絵画の題目は、省略する。     スラヴ叙事詩 を参照。























追加になるが、ミュシャの製作した聖ヴィタ大聖堂大司教礼拝堂のステンドグラスの画像。このステンドグラスを見ました。ミュシャらしい絵柄でありデザインでした。 



 今回は長くなりました。これでおしまい。

 

 
 

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